円空(1632-1695)
出生地については美濃国であることには間違いないが美濃国のどこであるかまでは、未だ明確な資料が存在しない。(現、羽島市あるいは郡上市美並町であるとされている)1650年長良川の大氾濫によって母を失って出家したと言われており、その後64歳で入定するまでに全国を行脚し、12万体にも及ぶ仏像を残した仏師・僧侶である。円空仏といえば、木目肌を生かし、荒々しく鋭い彫りでいて優しい表情をしている仏像という印象も強いのであるが、天徳寺に所蔵される釈迦如来坐像は丁寧に彫られていて、体・顔、全てが曲線で構成されている、衣の線も多く、台座の蓮弁や框座にも細かい線が何本も刻まれています。また、台座の裏には木取り線の墨も残っていて素材を吟味して彫った余裕さえ感じられます。これは、円空ごく初期(寛文5年(1665)34歳の時)の作であるとされ、まだ、いわゆる円空らしい彫りが確立する前の作品であり、関市の重要文化財の指定を受けています。
天徳寺に円空
<上画像:釈迦如来>
なぜ、天徳寺にこの仏像が在るかについては、文献が存在しないので推定になりますが、天徳寺の歴史にも関係があります。天徳寺の開闢は貞治元年(1362年)、その後天正年中に兵火に焼かれました。この地域は江戸時代、鋳物師屋村といい、鋳物師職が繁昌した地域で、慶安年間に鋳物師の伊佐 七右衛門が大檀那となって再興したという記録があり、まさに円空が出家した頃と歴史的に重なります。円空が、当時再興されたばかりの天徳寺を訪問したであろうことは安易に想像できます。天徳寺には、この指定文化財の釈迦如来坐像の他に、もう1体、寛文年間の終わり頃の作である聖観世音菩薩の裳懸座像(もかけざぞう)があり、円空はこの寺を数回にわたって訪れていた事が窺い知れます。円空は関の鍛冶職との交流の他にも、この地域の鋳物師職とも交流があった事が想像できます。
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